エンターテイナー・アモルのカレイドスコープ

AWsの代表、エンターテイナーであるメリーさんのアモルが万華鏡の如く感じたことを書き綴る

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【言及】発信者としての責任について

 こんばんは、アモルです。

 この記事は一年前から書こうと思っていて、下書き保存になっていたのですが、また書きたくなる事が増えたので書くことにしました。

 

 

 「公式」という言葉がある。

 使われ方は色々あるが、ここで言いたいのは、人称として使われた時の話だ。つまり、コンテンツを提供する者のことを指す語である。

 そういう意味で言えば、AWsという創作サークルの代表を務めている私も、公式と言えなくはないだろう。

AWs

 実際には、集団を指す事が多いので私個人と言うよりAWs全体を指す、というのが適当だろう。

 ところで、公式のあり方というのはよく議論される。AWsのように無名であれば、よほどの事をしてそれが大衆の目に留まり炎上するのでない限り、そう問題にはならないだろうが*1、殆どの場合、ファンの言い分に流されすぎだ、とか、こんなの解釈違いだ、とか、様々な指摘に直面する事になる。

 私はそれらの指摘に従う理由は何一つないとは思うが、少なくともそういった指摘はよく行われる。

 

 「インフルエンサー」という言葉がある。

 要は周囲に大きな影響力を持つ人のことだ。

 私の知る限り他称される者だと思っていたのだが、最近は自称されることも増えてきたように思う。

 ほぼ有名ブロガーのことを指す事が多い。というか、人によっては有名ブロガーのことをインフルエンサーと呼ぶと思っている人もいる。狭義のインフルエンサーの意味としてもうそういう意味が出来上がってる気がする。

 

 ところで、この二つの言葉には共通点がある。言葉を変えてるだけで、どちらも「発信者」である、という点だ。

 そして、ブログを書いたり、ネットに何かしらを公開している人間も須らく言うまでもなく「発信者」である。

 もちろん、これはとても強引なまとめ方である。アニメーションやゲームの発信とブログの発信、エッセイの発信、それらは決して同じでもない。

 ただ、それを差し引いても、同じ発信者だということを忘れている場合が多い気がする。

 特に「公式」へ、ブログを使ってものを言う人は、結果的に自身の首も締めてることを理解しているのだろうか? といつも思う。

 一度、指摘されているのを見た事はあるが、「俺は公式だったのか……」と惚けた返事をして論点を逸らしていた。このツイートについて弁解するなら、元々、「あなたも公式ですよね」に付随する理屈がそもそも論点から逸れていたので仕方ない部分ではあるが、「公式」も、自身も同じコンテンツ発信者である事を忘れてはいけないと思う。

 自身は「好き勝手思った事を書いてるだけ」で、「公式」に「自分が好きだからと言ってそれを勝手に採用すればそれを見ている人はどう感じるのか」などと論じるのは、本来ダブルスタンダードであるはずだが、自分は個人ブロガー、相手は公式、と論を展開する事で、巧みに「それはそれ、これはこれ」と責任逃れをしている。

 

 ところで、最近、よく「インフルエンサーはその責任を持て」と言う言葉を耳にする。

 デマなどの悪影響の大きい情報を拡散するインフルエンサーへの警鐘であろう。

 それ自体は正しい。デマだと指摘された事にあれこれ根拠のない言い訳を重ねて認めず、デマの拡散を続けるのは許されることではない。

 ただ、私はこの言葉の主語は間違っていると思う。

 「インフルエンサーは」ではない。インフルエンサーが特別その責任を持つのではない。

 「発信者はその発信内容に責任を持つ」べきなのだ。

 確かに影響力の大きい方が悪影響の大きい情報を拡散する事による影響は大きいわけだから、責任は大きくなる気がする。

 しかし、影響力とは変動する。瞬間的に大きくなることもある。

 Twitterで「バズる」と言う言葉があるが、まさにその言葉の通り、無名な発信者がたまたま人々の目に留まり拡散されたことで大きく拡散されることもある。

 発信した以上は本人が自身に認識する知名度に関わらず、広く影響を与える可能性がある。それを理解すべきなのだ。

 逆に、それを理解していないからこそ、「インフルエンサーは」、「公式は」と誤った主語で自分は別であるかのような論理展開をしてしまう。

 

 これはTwitterも同じことだ。気軽に呟けるTwitterだが、RT機能による拡散が時として思わぬ影響力を持つ事は先に言及済みだ。

 Twitterでもデマだと指摘されてなおツイートを消さない人間を多く目にする。

 

 しかし、Twitterに置き換えてみると、「じゃあ本当か分からない事をいちいちファクトチェックしないとならないのか」とかそう言う話になってくる。

 私は何もそこまで言うつもりはない。誰だって、自由に気軽に発信できて良いと思う。

 私は不確かな情報を発信する事そのものを悪いとは思わない。誰にでも勘違いはあるし、詳しくないから、と発信を渋る事で有益な情報が出回らない事がある。(とはいえ検索する程度で解決する問題は検索して欲しいとは思うが)

 私がコンテンツ発信者に持って欲しい責任は「誤った情報だと指摘された場合は、速やかに認め、発信を停止する」事だ。

 当たり前のことのように思えるが、Twitterでさえそれが十分に行われているとは言い難い。

 Twitterでの拡散はRT機能によるものがほとんどなので、殆どの場合、本人が撤回すれば解決する。にも関わらずそうしない場合が多いのは、発信者としての責任感がないと言わざるを得ない。余談だが、この撤回が簡単、という点において、Twitterは手軽、という事が引き続き言えると思う。

 

 最後に、これは本題とは逸れるが

 指摘を行う人間も多少は気を使った方が良いと思う。指摘を行うときに言葉遣いがキツくなりすぎると、その時点でどうしたって発信者は聞く気をなくしてしまうし、それが殺到すれば撤回どころではない。

 また、決して人格攻撃を行ってはならない。人格攻撃をしてくる人間の話を聞きたいと思うだろうか? まして、批判されている側は批判者を十把一絡げに認識しがちだ。人格攻撃を行う人間がいるというだけで、批判者全体の指摘がスルーされかねない。

 人格攻撃を行う人間もまた、正しい情報を拡散し、誤った情報の拡散を止めたい人間からすれば敵なのだということを理解した方が良い。

 

 この記事をきっかけに自身の発信に責任を持つ人が増えることを祈る。

 

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*1:有名にはなりたいですが

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