つい先日、Twitterで以下のようなツイートを見かけた。
曰く「健常者がファッションで車椅子を使ってる」
しかもこれは言いがかりだったそうで、歩けない時があるから使ってる、とのこと。
なんだ、健常者のファッションじゃなかったのか、よかったよかった。歩ける時と歩けない時があるなんて知らないと分からないから仕方ないね。 そんな声が聞こえる。後者は流石に思ってない人でも、前者は思ったのではないか? そんな気がしてしまう。(このタイトルで読みに来てる以上、良識がある人の方が多いだろうとは思っています)
言わせてもらいたい。
ちっともよくなーーーーーい!!!
つかこの件で誰が得したよ。
この件でいいことがあったとしたら、自称正義の健常者がいいことした風になって気分良いだけじゃねぇか。
つまり良いことしたいと思ってる奴がなんか良いことしたと思って終わってる。
当たり前だけど良いことはされた側が「してもらった、ありがとう」ってなって初めて良いことになる。*1
さて、少し口が悪くなってしまったが、ここから真面目な口調で仕切り直していこうと思う。
確認しておきたいが、私が憤っているのは、件の批判先が冤罪だったからではない。もし、ファッション車椅子*2の疑義をかけられた相手が本当にファッション車椅子だったとしても、同じように憤っていただろう。
誰のための善行か
まず根本的なところから話したい。「ファッション車椅子をやめろ」と主張が行われる事で誰が得をするのだろうか? 誰が感謝するのだろうか?
答えは誰も得しないである。
ファッション車椅子を使う奴がいようといまいと、車椅子に乗らなければならない人間は車椅子に乗らなければならないし、車椅子で不便な思いをする人は不便な思いをするのである。
勿論例外はある。例えば、この場所のレンタル車椅子は少ないので、本当に必要な人以外は使うべきではない、とか。車椅子専用スペースが限られているので、止むを得ず車椅子に乗ってるのでなければ遠慮してほしいとか。満員電車に車椅子が不要な人間が車椅子で乗ってくるのは迷惑だ、とか。まぁ最後は怪しいが、そう言った「いや迷惑する時はあるんだよ」という個々の事情はあると思う。ただ、それは個々の事象に対して批判すべきであって全体を批判する理由にはなっていない。
つまり批判があり得るとしたら、「そこはレンタル車椅子が少ないので、健常者なら遠慮した方が良いですよ」とか「そこは車椅子専用スペースが少ないから、せめて車椅子専用スペースからは退くべきではないですか」という類のものでなければおかしい。
勿論この場合も、「いや私は車椅子が必要な理由があるんです」と言われたらごめんなさいと謝ろう。
間違った全体化はマイナスの効果を生む
そもそもこの世の中、十把一絡げに全体に批判を適応する人を散見する。これはおそらく個別に考えるコストを避けた結果に生じるのだろう。
だが、これはマイナスの効果を生みかねない。
私が思い出すのは高校時代の話だ。
私は普段自転車登校だったが、雨の日などは電車で登校していた。
私のように比較的近くに住んでいる方が珍しいので普通は電車登校一択だった。
ある日、学校に苦情が来たらしい。
曰く「おたくの生徒が優先席に座っていて座れなかった」と。
そんな苦情を受けて、駅に教師が立ち注意に回るようになった。今の教師の大変さがよく叫ばれるが、本当に大変なことで、頭が下がる思いではある。
が、各教師の基準の差もあるのだとは思うが、これが行き過ぎていると感じる事があった。
それは主に午前中、昼などで帰れるタイミングでの話である。
常に混んでいるのが基本の都会の電車を基準に考えるとイメージしにくいかもしれないが、田舎の電車というのはラッシュ時以外基本的に空いている。
そして、この時私達の乗る電車は、電車壁に背中をくっつけて中央に向くタイプのものと、二人二人で向かい合わせに座るタイプのものと、が混在していた。
そして、優先座席は後者であった。
誰も立っている人もいないほどの空いている時間帯である。四人組などはやはり向かい合って座るタイプの座席に座りたい。
しかし、これは教師の指導により阻まれた。
当時は言えなかったが、今言いたい。その指導で誰が得するのか。
優先座席とは本来「高齢者の方や障碍のある方がいたら積極的に譲りましょう」と、こういう席である。
しかしその教師の指導によると、「優先座席は高齢者の方や障碍のある方のみ座れる席」となってしまう。
もしこの認識が定着するとどうなるだろうか。
優先座席が空いている時に非優先座席に座っている高齢の方や障碍のある方に対し、「お前は優先座席に座れ」という風に感じる者が増えていく結果になりかねない。
なにせせっかく空いているのに座れないのである。そこにいる彼らが優先座席に移動すればそこに座れるとすれば、そのような思考になってしまうことを誰が止められるだろうか。*3
幸いにして教師が駅に監視に来るのは短期間で終わり、このような悪しき風潮が広まることは避けられた。
何が言いたいかと言うと、考えなしに効果を特定の属性全体に浴びせてしまうと、却ってマイナスの結果を生みかねないのである。
では、ファッション車椅子全体を否定する事により生じるマイナスとはなんだろうか?
まず一つ目は通常の車椅子利用者*4を萎縮させかねない点である。「軽い障碍だからファッションと思われるかも」と思わせてしまえば、それを避けるためにどんな危険なことをするか、想像もつかない。
そして二つ目だが……、そもそも私はなんの理由もなくても車椅子に乗ってみてほしいと感じていると言う点だ。
無論私の個人的な見解ではある。だが、聞いてほしい。意味はあるのだ。
ファッション車椅子の意義
車椅子というのは不便なものだ。
それはおそらく多くの人間が言葉としては理解している。
だが、それを実感として知っている健常者がどれほどいるだろうか?
私は何度か車椅子体験に参加したり携わったりした事がある。
正直に言って、参加する人の数は多いとは言えない。もちろんこれは、そもそもの車椅子の数の問題で参加者を絞っているケースもある上に、私の所感でしかない話ではあるが。
車椅子の不便さに実感がないと言うことは、車椅子利用者がどう言ったところで困り、どう言ったところでは助けが不要なのかも、実のところよくわかってないと言える。
つまり、ファッション車椅子の一つ目のメリットは車椅子の酸いも甘いも知る事ができると言うことだ。いつでも辞められるファッション車椅子とずっと車椅子な利用者を比べるのはフェアではないと言う人もいるかも知れないが、全く理解出来ない状態よりは良いと私は信じている。
第二に、車椅子利用者にとって、まだまだ社会は障害(バリア)だらけだと言うことだ。
本当にファッション車椅子なるものが存在すれば、彼はもまたそう言ったバリアに悩まされる事になる。
あらゆる運動、活動を見ても分かるが、理解者の多さに勝る力はなかなかない。
どこそこにどんなバリアがあって不便だと言う認識が車椅子利用者以外にも伝わる事がどれだけ良い事か、と言う話である。
最後に逆説的な話として、ファッションで車椅子を使えるくらい車椅子が快適になることは、車椅子利用者が快適であると言う事だ。
もしファッション車椅子が多い街が生まれたら、それは不名誉なことでもなんでもなく、むしろ車椅子で不便なく快適に生活できるバリアフリーな街であると言う事なのだから。
そう、真にバリアフリーかつノーマライゼーションな社会を夢見るのであれば、むしろファッション車椅子は歓迎すべき事であるはずなのである。
車椅子が普遍的なものとして認識されればされるほど、その社会がバリアフリーになっている証なのだから。
伊達眼鏡は罪か否か
ところで、車椅子だけだと車椅子だけの話と思われかねないので、他の例えを出してみようと思う。
そこで触れたいのはファッションとして既に成立している障害矯正器具、すなわち、眼鏡である。
まさか眼鏡を知らない人間はいないだろう。私もつけているし、今の日本において眼鏡屋はあちこちにありふれた存在だ。
眼鏡と車椅子は違うと言う人もいるかも知れないが、少なくとも論理的に違いを説明できた人を私は知らない。
例えば私の妻を見てほしい。眼鏡がなければ歩くことさえ困難を極める。
眼鏡やコンタクトレンズが優秀であるが故に今の社会では障害者認定されないだけで、立派な生活の障害である。
そして眼鏡の世界には伊達眼鏡というファッションのための眼鏡がある。まさに車椅子に対するファッション車椅子だ。
だがこれを非難するものはほとんどいない。
それは眼鏡が普遍的なものとして認められているからだ。
車椅子も同じになる事が、この社会にとって理想であると私は思う。
もう一つの意味でのファッションの話
さて、本当はここで話を切っても良いのだが、実は前々から言いたかった話がある。
こちらもファッション車椅子の事だ。
と言っても、車椅子利用者のファッションの方である。
もうそれなりに前のことになる。いや、私があえて見ていなかったりブロックした相手ばかりだから知らないだけで今も続いているのかも知れないが。
車椅子をかっこよく改造している利用者を「車椅子で遊ぶな」と非難する光景を見た事がある。
だが、利用者以外が利用者に断りなく遊ぶならともかく、利用者本人が遊んで何が悪いのだろうか。*5
酷い例だと私物の車椅子にシールを貼ってるだけで憤る者までいる。
先のメガネで言うなら、眼鏡をシールでデコレーションして怒る人はまずいない。勿論フォーマルな場所でなら怒られるかも知れないが、ここはTPOの話は抜きにして考えてほしい。
あるいはおしゃれな眼鏡をつけている人間に憤る人がいるだろうか。
むしろ眼鏡屋はフレームの豪華絢爛さ、美しさに努力をかけていると思う。
当たり前だ。ずっとずっと使うものなのだから、自分の気に入った見た目のものを選びたい。
なんなら私の妻は自分の好きなキャラクターのコラボレーションモデルの眼鏡をつけている。(私も自分の推しのメガネ出てくれ)
車椅子だって、あるいは松葉杖だって同じのはずだ。(つまりアニメキャラコラボレーションモデルの車椅子や松葉杖があっても良いはずだ!)
だが残念なことに車椅子も松葉杖も、眼鏡屋ほど普遍的なものとはまだ認識されていない。故に自分で柄を選んで買う、と言うのは容易ではない。(松葉杖は最近はいろんなバリエーションを見る。良いことだと思う)
残念ながら眼鏡屋のような車椅子屋はない。なら、自分好みにデコレーションするくらい、許されて然るべきではないだろうか。
少なくとも周りの人間が「お前はおしゃれするな」などと言う権利はないはずだ。
と言うところまで書いて気づいたのだが、もしかして健常者によるファッション車椅子が流行れば、彼らのためのお洒落な車椅子が売られるようになり、お洒落な車椅子に乗りたい車椅子利用者も助かるのではないだろうか?
眼鏡屋があって車椅子屋がないのはひとえにユーザーが少ないからなわけだから、ファッション車椅子が流行れば、その問題は解決する。
ファッション車椅子を肯定する3つ目の理由まで出来てしまった。
やはり、ファッション車椅子は肯定されるべき存在なのだろう。
終わりに
以上、私の考えを述べさせてもらった。人それぞれ思いは違う。間違っていると思う意見もあると思う。私の知る当事者の言葉以外に違う意見を持つ当事者もいると思う。ぜひ聞かせて欲しい。
あるいは正しいと思ってくれたならぜひ広めてほしい。自分の言葉で広めてくれても良いし、それが困難なら、もしこの記事が役に立つなら役に立てて欲しい。
この記事が少しでもより良い社会に近づく貢献になることを祈って筆をおくこととする。