こんばんは、アモルです。実は精神的に少し不調なのですが、文章を書いてたら元気になる可能性に賭けてこの記事を書いてます*1
はい、この前置きは昨日書かれたものです。書けませんでした!
さて今回は、ツイッターで見かけた、「長々と風景を説明するのは不要。例えば繁華街なら繁華街の一言で終わる」と言う旨の話について、本当にそうなのか、少し考えてみたいと思います。もうすでに色んな作家さんとかが反応されてますけどね。私も自称作家の端くれとしてちょっと言及してみようかな、というわけです。
基本的には正しい
私はちょうど昨日、小説という媒体のメリットデメリットを説明しましたね。そこで私は「情報量を圧縮するのが得意」「視覚的に分かりやすい表現も文字では表しにくいことも」という二点をお話ししました。まだ読んでいらっしゃらない方は以下のリンクをご覧下さい。
作品の媒体の違いと魅せ方の違いについての考察 小説とアニメと漫画とゲーム - エンターテイナー・アモルのカレイドスコープ
で、この条件から考えるなら、件の発言は正しいと考える事ができると思う。
風景描写、街並みの描写は絵には簡単だが、文章では難しいものだ。「並木道」とか「繁華街」でそのイメージを伝えられるなら、それで問題ないだろう。発言者は「その言葉から脳内イメージを引っ張ってこれる」と語る。これは言い得て妙、というかまさに小説という媒体の特徴をしっかりと説明した一文であり、この発言者が小説という媒体についてしっかりと理解している事を思わせる。
簡潔すぎる説明は乖離をもたらす
一方で、この発言が必ずしも正しくない事もある。例えばここが日本で「繁華街」なのであれば、イメージは容易だ。だが、中東の「バザール」なら? イメージするのが難しい人もいる可能性が出てくる。
小説という媒体がそもそもそうなのだが、想像できない人、予備知識がない人は、その風景が全く描けず、そこで突き放されてしまう、という問題が発生する。
もちろん、これは風景描写を単語で済ませた場合に限らない問題だ。例えば拙著『Angel Dust』*2に置いて、「銀朱色の巨人」という表現が度々登場する。銀朱色とは英語に直すとヴァーミリオンのこと、黄色味のかかった赤のことを言うのだが、その事を知らない人はヴァーミリオンを銀色の巨人だと思っている人もいることをファンレターから知った。
まぁ銀朱色の例は確かに銀朱とはなかなか聞かないので仕方ないにしても、簡潔すぎる説明は時として作者と読者の間にイメージの乖離をもたらす。
文字通り単なる繁華街でしかないのなら問題ないが、作者がその繁華街を舞台になんらかの出来事を起こした場合、その読者の繁華街のイメージにないものが突然登場すると、読者はイメージのやり直しが求められ、その瞬間、没入感が失われる。「物体にフォーカスするまでに周りを描け」という話があるが、これと同じ理由である。要は読者が既に思い描いてるイメージを変更する必要に迫られてしまうのは大きな問題なのである。
ただ、これにもやりようはある。前回は描き損ねたが「情報量を制御できる」のは小説のメリットなのである。
要は「カジノが散見される繁華街」とか「やたら大きい看板の店が多い繁華街」とか「〜繁華街だ。大きな看板の大きい店が一つ立っており、目を惹く」と言った形だ。
作品の軸に関わる時
通常、あらゆる作品にはテーマ、カラー、主題、言い方は様々なれど、軸が存在する。その軸に関わるものをぞんざいに扱うことは読者が軸を見失う原因になりかねない。例えば、様々な街の繁華街に赴く物語であれば、各繁華街に特徴がなければその軸を満たせない。(まぁ『キノの旅』みたくもっと特徴ある国を巡れよ、みたいな話もあるが)
様々な惑星を巡る物語において、「森の枠席」「砂漠の惑星」のような簡潔な説明で物語を進めると「これ、森も砂漠も同じ惑星内だとしても話が通るのでは?」という様な疑問を抱かせかねない。(まぁ同じ惑星内でも話が通ると思われるのには「別の惑星である必要性が物語上存在しない」というような、また別のシナリオ設計上の問題がある可能性も高いが)
この場合も解決策は先と同じ、一つでも二つでも特徴的な部分を設定し、それを説明する様にすれば良い。
現代世界以外
以上のように一部の例外には多少の付け足しをすれば正しい、と思われる。しかし、完全に異世界であればどうだろう? ファンタジー界の大御所であるトールキン先生*3の『妖精物語について』で語られている通り、現代世界でないにも関わらず、全てが現代社会と変わらないのは不自然である。緑の太陽があれば植物もそれに合わせ違う形に進化しているだろうし、マナのようなものの存在する世界の生物や樹木がこの世界と同じであるはずもない。
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トールキン先生の作品はむしろクドさこそが売りでさえあると言えるかもしれない。
トールキン先生ほど考証された世界観は難しいとしても、まるっきり現実世界ベースな説明だけの世界とは、異世界甲斐がない。というか、それこそ、よく言われる「ナーロッパ」*4ではないだろうか。
ナーロッパは合理的?
ただ、逆に言うとそれだけナーロッパが受けているのは「単語で簡潔にイメージさせられるから」に尽きる、と言えるのかもしれない。
ある意味、分かりやすさを貫くとナーロッパが生まれる、というのはライトな読み手の多いなろうにおいて一つの必然なのかもしれない。
最後に「正しいけどやっぱり私は」。そしてくどい描写をしたいあなたへ
けど私は描写がくどくどしい小説が大好きです。だから、自分は無駄にくどくどしいのかも、と思ってる人もそこまで気にしないでいいと思います。
どうしても気になるようなら、クドさ全てを伏線にしてみません? クドい説明、その全てに意味がある。そんな作品も素敵だと思います。それをクドい、無駄、と読む人は単に読むセンスがないんだからほっておけばいいんだしね。
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まとめ
・簡潔に表せるならそれに越したことはない
・簡潔すぎると読者と作者でイメージが食い違う事があるので、そこには気をつける
・異世界ものなら、クドさも味になりやすい
・クドさを除いた簡潔な作品の行き着く先がナーロッパなのでは?
・でもオレはくどいのも好きだから、クドいの嫌いな奴はほっとけ。そいつはお前の読者じゃないだけだ