こんばんは、アモルです。昨日ツイッターで大いに話題になっていた箸の持ち方についてのお話、ツイッターの140字ではちょっと意見表明出来そうになかったですが、ブログなら出来そう、という事で、少し語ってみたいと思います。
そもそもお前はどっち側やねんって話
まずはそこですよね。結論から言うと、私は「箸の持ち方にそこまで拘る必要は無いとは思うけど、箸の持ち方"くらい"と思うなら、"くらい"は子どものうちに学んでおいたほうがいいと思う」です。結論長いな。
なんでそんな結論になるかと言うと、これはもう人生経験24年の私の経験則からの考えです。
私の経験のお話
まず最初にお話しすると、私は箸が正しく持てません。過去形ではなく現在形で。小学生当時の私は箸の正しい持ち方がさっぱりわかりまさんでした。鉛筆の持ち方に一本増やす? 意味不明です。正直今にして思うとこの教え方にまず問題がある気もするのですが、今もこの教え方なのでしょうか?
こうして箸の持ち方の分からない私は、我流で箸の持ち方を取得しました。文字通り鉛筆の持ち方に一本足して中指の関節に引っ掛けで箸を動かす方法です。厳密には当時の私は「やった、持てた!」って感じで間違ってるって認識も無かったですけどね。なもんで、「正しく持ちなさい」って言われても「持ててるじゃん」って感じでした。
下記のような箸の持ち方を教えられるような道具を使わされることになる事もありましたが、意地こな私は、「これで出来てるじゃん、この箸だと持てないじゃん」なんて言って放棄したのを覚えています。
で、肝心なのは、それで困ったのかどうかですよね? 結論から言うと、経験24年では特に困りませんでした。ただ、思い返すと、私の友好関係はいつも狭く、気の置けない僅かな友達くらいでした。もちろん私自身の性格もありますが、この中には「あんな箸の持ち方する人無理」と距離を置いた人がいた事も考えうるでしょうね。
人間関係って婚姻とか親友だけのものじゃ無いよねって話
箸の持ち方一つでどうにかなる関係ならなくてもいいでしょ、と言う考え方がある。これは箸の持ち方に限らずあらゆるマナーに言われることかもしれない。それは私も認める。同意見だ。長く一緒にいることになる親友やパートナーが一々フォーマルなマナーを要求してくるようだと辛い。お互い自然体でいてもしんどく無い関係でいたい。
だが、人間関係というのは、親友とパートナーだけの話では無いのでは無いかと思う。学校であれば、僅かな友人さえいればいい、と言っていられるが、社会に出れば否応無しに与えられた周囲の人間とうまく付き合っていくことを求められるし、そこをうまく切り抜けるには、学生時代に価値観の違う人間ともうまく付き合えるスキルを身につけておく必要があるような思う。私はそれがなかったので社会人になって人間関係で苦しんだ。ってか今も苦しんでいる。学生時代、友好関係の広かった友はなかなかそうなっていない。完全に、「親友が数人いればいい」と友好関係を狭く閉じていたツケだと思う。
要するに人間生きていくにはそれなりの人間と無難な関係を築ける程度の能力は求められる、ということだと思う。
もちろんそんな社会が正しいかとは関係ない。社会やシステムがどれだけ間違っていても、少なくとも今私達はその社会やシステムの中で生きているのだ。変えようとする努力は必要だが、変わるまで全てを社会やシステムのせいにしていても駄目だろうと思う。この辺の話は少し余談になってしまうので、またそのうち別の記事で語りたいと思う。*1
さて、じゃあそれが箸の持ち方にどう関係するのか、という話なのだけれど、これは私がマナーの悪い人を見て感じることなのだが、「食事」というのは相手に不快感を与えやすい場だと思うのだ。物を食べるというのはあまり綺麗な行動ではない。歯は汚れるし、口の中で咀嚼された食べ物は概ね見るに耐えないものになるし、器から溢れた食べ物はその瞬間にゴミへと変貌する。だから例えば、口を開けたまま咀嚼する人間*2などは、その正面に立ちたくない、と思われてしまう。誰だって食事中の口の中なんて見たくないからだ。
箸の持ち方というのは、上の例と比べるとレベルの低いマナーである。ただ、ここで問題になるのは、その人を最初に見た人が「その人が最低限のマナーをどこに置いているかは分からない」と言うことだ。つまり、「たかが、箸の持ち方程度」と本人は思っていて、他の不快度数の高い部分のマナーは完璧だとしても、外から見ると「箸すらちゃんと持てない。他のマナーも不味いのでは?」と警戒されてしまう可能性がある。
誰しも言葉では言いつくろいつつも自覚はあると思うのだけれど、人間、第一印象が与える影響は大きい。仕事をお願いする時、「キリッとしてる人」と、「ヨレヨレの人」なら、多くの人間が前者に頼むだろう。例えそれが、「外見は取り繕っているけれど中身は伴わない人」と、「外見に無頓着だがスキルはある人」の対比だとしても、「だが」の向こう側は第一印象からは測れないのだ。もちろん、前者に頼んだ人もやがて、中身の伴わなさから後者に頼むかもしれない。しかし、それも「二択だからこその仮定」に過ぎない。実際には「キリッとした人A」「キリッとした人B」「キリッとした人C」「キリッとした人D」「キリッとした人E」「ヨレヨレの人」のようになる。ヨレヨレの人のところまで話が届くのは、5番目になってようやくである。その間に仕事のできる人がいれば、ヨレヨレの人には届かない。第一印象というのはこのソートの優先度を上げる行為である。
で、箸の持ち方というのは、食事を始めるにあたって最初に見ることになる、食事の第一印象だ。そして先に触れた通り、食事と言うのは、失敗すると不快になりやすい場である。第一印象の悪い人間と誰があえて食事をしたがるだろうか。
もちろんそういうのに無頓着な人がその人の前に現れて、その人が分かってくれる事はあるだろう。だが、そのロスが勿体無い、という話なのである。
小学生のうちに直そうよって話
第一印象の話のうち、顔などはなかなか変えようがない。だが、箸の持ち方なら、幾らでも改善出来る。たかが箸の持ち方くらい、というのなら、その箸の持ち方くらい、ちゃんと出来るようにしておいた方が損が少ないのだ。
とはいえ、大人になるとこれはかなりしんどい。私は大学時代にパートナーと出会い、パートナーから教わる事で正しい箸の持ち方を理解した。しかし、小学生から慣れ親しんできた今の持ち方から改善する事はできなかった。「慣れ」てしまうと改めるのは難しいのだ。「慣れ」てる方が楽なのだから。だから、可能なら、小学生のうちから正しい箸の持ち方を学んでおいた方が良いと私は思う。大人になってから後悔するのはただただ手遅れというものだ。
マナーとかを気にする人と結婚する必要はない? その通り、だが、パートナーや親友になる気のないこの世界の多くの人と衝突少なく過ごすのであれば、「外では取り繕う」能力は必要なのだと、私は思う。